6月 24, 2021

思考の出力先としてのSNS

思ったことをSNSに小出しするようになって、日記として機能していたブログがいつの間にか長文を書くための場所となったり、まとめを置いておく場所になったり、アドベントカレンダーとしてお題を提供されないと書くタイミングを見つけられなくなってしまった。たまに長文を書くと、すでに脳の出力が短文投稿に最適化されてしまっているようで、文章を書いているうちにまとまりがなくなったり、書きながら考えが変わっていったりして、最初に書きたかったことと全然違うことを書いていたりする。だったら、もう考えの出力はSNSで良いんじゃないかとも思ったりもするんだけど、SNSに考えの断片を投稿していると、その途中で別の話題が流れ込んできてそっちの話に移ってしまい「もう誰も○○の話していない」みたいなことが、わりと起こりやすい。だから、外部からの話題流入に影響されず、自分の考えだけで話題の移り変わりを楽しむという使い方で、ブログは楽しめるんじゃないかと思った。ただ、これは間違った知識によって間違ったまま突き進んでしまう恐れがある。間違いがリアムタイムに近い速度でツッコミやマサカリによって訂正されていくSNS、これはこれで利点であり、思考の高速化に繋がっていってるんだろうか。

「インターネットの人達はどこに行ったのか。」
はてなから人が居なくなったという投稿を見かけて、ふと考えた。
?年 地元の草の根BBS
?年 NIFTY-SERVE
1996年 ゆびとま
1996年 ICQ
1999年 2ちゃんねる
1999年 MSN Messenger
2003年 はてなダイアリー
2004年 mixi
2004年 各種ブログ
2005年 はてなブックマーク
2006年 Twitter
2017年 分散SNS(これは実際に使い始めた年)
自分や周りの人が使っていたサービスを書き出してみた。お歳がバレますね。開始年は「インターネットの歴史 History of the Internet- Yahoo! JAPAN」より。
サービスの開始年であって、実際に使い始めたのはもう少し後になると思う。特に外国サービスは、当時インターネットと言えども情報の伝播速度が遅くて、アンテナを広く張っていないと気が付かない事が多かった。Twitterのアカウント作成も2007年9月で、実際に使い始めたのは2008年だった。

上に挙げたサービス一覧の最初の頃、パソコン通信で一日数回ぐらい自動巡回させ、投稿内容に返信を入れたり、メールの返事を書いたり、初めてパソコンが外と繋がった当時は、まだ時間の流れが緩やかだった。
それがテレホーダイだったり定額接続時代がやってきて、常時接続が当たり前となった。自分の都合が良い時間に投げておいて、相手が都合の良いときに返信が返ってくる。自分も相手もコンピュータの前に居たり、手元の機械で返事が返せるようになった。通信の敷居が下がり、多くの人がインターネットを通じて情報交換できるようになった。
やり取りがリアルタイムになり、多くの人間の考えがすごい速度で手元に届くようになったとき、間違ったことを書いたときに、1対1で注意したつもりが相手は数千人から注意されていたということが起こるようになった。

「ネットワークコミュニティの寿命は10年」という説を見かけたことがある。
10年も続いているとコミュニティに属している人達の年齢層がそのまま10歳進み、ユーザーの増加と共に新しく入ってきた10歳下の人達との価値観が合わなくなったりしてトラブルが起こり、人が減り、先細り、崩壊してしまうというやつだ。
こうして振り返ると、過去に使っていたサービスも使わなくなったり退会してしまったり、確かに10年以上使い続けているものがない。
今後もこれを続けていくのだろうか。しかし、Twitterは既に公的機関までも使うようになり、インフラとしての地位を築いてしまっている。SNSという仕組みは、きっとこのまま、一人格一アカウントという形で続いていくんじゃないかと思っている。人間をフォローする仕組みではなく、話題をフォローする仕組みだったり、細かな発明は続いていくだろうが、一人一人が発信用のアカウントを持っているという形態は変わらないのではないか。
わたしもTwitterのアカウントは放置状態となっているが、結局分散SNSで相変わらず投稿を続けている。
Twitterという一つのサービスで語られる事が多いが、既にSNSがインフラとなったことでそこは社会と同じ状態で、同じ価値観の集まりで群体ができている。それによってこれまで現実世界でも局所的に発生していたクラスタによる摩擦がインターネットを通して観測しやすくなったところがあると思う。

話が戻るが、インターネットへ発信する敷居が下がった一方、逆に敷居が上がってしまったのではないかと思っている。
正しいことだけをきちんと書き記せる人達、いろいろなことを書いていたが間違ったことを書けないという脅迫感を持ってしまった人達、間違ったことを書いても気にしない人達。この中間の「取りあえず何でも良いから記録を残していた人達」がインターネットから消えてしまったのではないか。正確には傍観者となったのではないか。
正しいことだけを書き記せる人達が常に聖人というわけではなく、ここには注意を受けて訂正したり、自分の考えをアップデートできる、最終的に正しいことにたどり着ける人達が含まれている。
「ダニング=クルーガー効果」というものがある。能力が劣っている場合、自分の能力不足を認知できないために自己の能力を過大評価する。いわゆる「ちょっとある分野をかじった時点で『完全に理解した』になり、更に勉強を進めると『なんもわからん』になり、極めると『チョットワカル』になる」あれだ。
ここで先ほどのインターネットに発信できる人達というのが、「完全に理解した」人達と「チョットワカル」の人達なのではないか。

インターネットから消えてしまった「なんもわからん」人達が、再びインターネットに書き込めるような環境ができれば、多くのサービスで人口が回復するのではないのかと考えていたりする。
「なんもわからん」人達は、何が分からなくてインターネットに発信しなくなったのか。それは先に挙げたクラスタ摩擦が怖いみたいなところにあるんじゃないだろうか。1対1でやり合っていたつもりが相手は数千人を相手していたというのは確かに怖い。Twitterではフォローしている人しか返信やDMができない仕組みを入れだした。これは上手いフィルターのかけ方だと感じた。
しかしフォローという仕組みはクラスタを構成する仕組みでもあるので、フォロワーからしか情報を受け付けないとなると、クラスタごとに共有されている誤った情報が更新されないままとなってしまう。エコーチェンバー現象というものだ。これでは「なんもわからん」から「チョットワカル」に進歩することができなくなってしまう。

酒の席では政治・宗教・野球の話はタブー聞く。わたし自身もSNSのフォロワーの中でも、政治の話は閲覧注意として折りたたまれていたり、フォロワー限定の鍵投稿となっていることが多い。これは余計な議論をしたくはないが自分の言いたいことは言いたいという欲求の表れだろう。これこそ先に書いた「なんもわからん」人達だったのではないか。そのような機能が無いTwitterだと、フォロワーを気にして何も投稿できなくなってしまったなどという話も聞く。
ダニング=クルーガー効果で出した「能力」という言葉を「正しいことを書ける能力」や「摩擦に対する恐怖」として表したが、実際のところは「インターネットにおいて自分の周囲から押し寄せる異なる意見に対しての対処法」というところなのではないか。
そこで、別の仕組みがあれば良いのだろうかと考えてみたりした。
・大量にリプライが届いた場合に、フォロー以外の場合にある程度フィルターする仕組み
・注意を行う文章内に人格批判を行うような的外れのものを削除してしまう仕組み
このようなものがあると、思考の速度を落とさず、インターネット文明を退化することなく、人間の思考を上手く進歩させていくことができるのではないだろうか。
またやり取りに時間が掛かるブログという仕組みであっても、いわゆる炎上というものは発生せず着実に知識を更新していけるのではないだろうか。

インターネットには間違った情報が多いから危険。調べ方をきちんと身につけていないと間違った情報を参照してしまう。そんな言葉を聞くが、これは図書館に並んでいる本であっても同じだ。
人は間違うしミスもする。いかにそれを直していくのかが大事であって、その仕組み作りとしてのフィルターという機能が必要性を考えてみた。インターネットでの仕組みとして書いたが、口頭の対面であっても注意の仕方だったり、問い合わせ電話窓口であったりしても絞り込みだったり、なにかしら改善できるところがあるんじゃないだろうか。


久々に長文を書くとやはり疲れる。
オチを用意せずに書き始めたので、後の方になって来て、そろそろ終わらせたいという気持ちになって焦りが出てきた。
無理矢理理論を展開して、ぼんやり霧の中から見えてきたオチに対して突き進む疾走感。
そうそう、これだよ、懐かしいなぁという気分になった。
これを書いている間でも、もうちょっと補足を付けた方が良いだろうかとか、理論に飛躍がありすぎるが説明したら冗長すぎるとか、いろいろと悩んでしまった。取りあえずSNSに投げてしまって、分からないところにリアルタイムで突っ込みが入るというまとめ方もあるのかも知れない。
「正しいこと」をまるで一つしかない事のように書いているが、もちろん地域や実情によって異なるだろうし、そのような多様性はまた別の話として書いてみたい。
この文章を書くきっかけとなったものもSNSに流れてきた話題だったのだが、こうしてお昼前からお昼ご飯を挟んでまで推敲して、投稿する段になってもう誰も○○の話していないという状態になった。
SNSの速度というものは素晴らしい進歩だなと改めて思い知らされるのであった。