初版の翻訳者が既に亡くなられているが、多くの文章が初版と同じということで、日本語訳には初版の文章がそのまま使われているところがあるとのことだった。そのせいか、全体的に言い回しが古くさいというか、堅苦しいというか、読んでいて少し疲れる文章ではあった。
デザインに関する本ということだったので、てっきり事例が多く挙げられどうすればいいのかという話になるのかと思っていたが、そうではなかった(これも疲れた原因かもしれない)。本書の最初の方では、駄目な事例の紹介が少しなされた後、人間の認知や記憶に関する話が続く。
一見デザインとはかけ離れるように思えるが、これが後の章に活きてくる。
デザインや設計を行う人間は、往々にしてその製品についていろいろ考え、既に「知っている」。その状態で操作パネルや説明文を作ると、「解る人には判るデザイン」というものが完成する。この「解る人には判るデザイン」は別の立場で見ると「解らない人には判らないデザイン」となってしまう。
この判らないまま操作するという行動が、過去に多くの事件や事故の元となってきた。事故調査報告書などでは、正しく原因が追及され「判りにくいデザインが悪」とされるのだが、身の回りで起こる小さなミスについては、「操作を間違えた人が悪」とされるパターンが多い。そしてそれが一人で扱っていた場合などに「この機器を上手く使えなかったのは自分の使い方が悪かったのだ」と考えてしまう。
自分を責めるという行動から次に繋がるのが苦手意識。とくにそれが販売されている製品などでは、次回の購入時に選択肢から外されてしまう可能性がある。
コンビニに置かれているコーヒー販売機に数々の補足シールが貼られているという現象が、一時期話題になった。あれもデザインの問題で、よく分からないことによる敬遠が発生し、それに対する対策としてのシールだったのだ。あのコーヒー販売機は、おしゃれを狙ったものだったのだろうが、本来はシールを貼らなくても何をどうすればコーヒーが買えるのか判るようにするのがデザインなのだ。
「よく分からないまま操作をした人が悪い」のではなく「よく分からないまま操作できてしまう機器」が悪いのだ。フェイルセーフという考えがあるが、あれは人間が失敗をする前提というでの設計だ。ここで言うデザインは、その失敗に繋がる前の段階での設計方針となる。
本書ではデザインという切り口から、人間が何かを成し遂げたいときに、どのように物事を理解して行動に繋げていくかという話が語られている。デザインというと視覚に訴える情報と捉えがちだがそれだけに止まらず、大きな組織・システムの設計にまで適用できる。
本書は人間が文化的活動を続けていく上で忘れてはいけない、基本的な設計思想というものを改めて気付かせてくれるものだった。物作りに関わる人だけでなく、使う側の人であっても何が良くて何が悪いのかを正しく判断できるようになるために、ぜひ読んで欲しい一冊だと感じた。